6.4私立中高一貫校に合格

 −母泣いて父に懇願:受けるだけでも(小学6年)

 小学6年生になると、私の成績は、学年でトップとなった。毎月行われる神奈川県の模試でも、常時100位台をキープしていた。

 担任の教師は、県で最難関の私立中高一貫校を受験するよう、母に強く勧めた。以下は、それを受けての、父と母のやり取りである。

「公立の中学でいいじゃないか。」

「先生は、受けないのはもったいない、と言ってる。」

「うちには、私立にやる金はない。」

「お金がないなら、私が働くわ。受けるだけでも、受けさせてあげてよ。」

 母が泣いている姿を、私は、他人事のように聞いていた。私立に行きたいという強い思いはなかったが、母の期待に応えたいという気持ちはあった。正直どっちでもよかった。というより、貧乏人の子供は、自分の希望を表に出してはいけないと、ずっと思ってきたし、そう行動してきた。おもちゃをおねだりすることもなかったし、両親に甘えることもなかった。父の理不尽な暴力が誘発されるのを恐れたせいもあるかもしれない。自分のことなのに、自分で決めることを回避するクセが付いていた。

 結局、父が折れた。合格するとは思っていなかったのだろう。受けるだけ受けて、それで気が済めばいいと。いや、むしろ、落ちることを願っていたのではないか。両親と一緒に受けることになっていた最終面接にも、父は来なかったし。

 その学校は、キリスト教系で、教師の半分ほどは宣教師だった。そのため、学費は、他の私立と比べて、かなり安かった。

 それでも、母は、約束通り、保険会社の外交員として働き始めた。社交的ではない母にとって、最も適さない仕事だったが、当時、スキルのない女性ができる職は限られていた。

 パートから帰って来ると、母はいつも機嫌が悪かった。私は、裏山で薪を拾ってきて、母に喜んでもらおうとした。都市ガスが引かれていない我が家は、風呂は石炭で沸かしていたが、薪を燃やすと石炭が節約できるのである。ただし、薪は、毎日は落ちていないので、その場合は、家の掃除をした。私の忖度人生に拍車がかかった。

 本当に、うちにはお金がなかったのだろうか。父は、万年平社員とはいえ、まがりなりにも準公務員である。最低限の給料は出ていたはずだ。実際、食べるものに困ったという記憶はない。当時出始めたばかりの白黒テレビも、購入は早かった。2021年6月1日のNHK番組「知恵泉」で、黒柳徹子さんが言っていたが、当時は公務員の初任給の5倍はしたようだ。今なら、100万円を越える金額だ。また、そのほか、高級釣り竿やゴルフクラブのセットも家にはあった。

 価値観の問題だと思う。何にお金をかけるかの。封建農家の末っ子として。

 ところで、入学試験の結果だが、学習塾一期生3人のうち、私とK君は合格し、クラスで最も優秀だったH君は落ちた。わからないものだ。だが、半年後、勉強に付いていけないK君は退学に追い込まれた。私は、落ちこぼれることもなく、何とか6年間を乗り切った。

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