6.6貧乏をこじらせたエピソード

 @誕生日会にお呼ばれして

 −自分の小遣いでチョコ1本を買う(小学3年)

 「6.2最初の記憶」に次いで、2番目に古い記憶だと思う。当時、小学生の間では、自分の誕生日に友達を自宅に招いて、ちょっとしたパーティーを開くことが流行っていた。

 私も、一度、クラスの子に招待されたことがあった。その際、通常はプラモデルなどのプレゼントを持参するのだが、私は、どういうわけか何も持たされなかった。手ぶらで訪問することに耐えられなかった私は、自分の小遣いでマーブルチョコを1本買って持って行った。たしか、10円か20円だったと思う。

 紙袋からチョコを取り出した友だちは、「何だこれ。」と言って、それを床に投げた。円柱が、コロコロと転がった。

 私は、恥ずかしさで顔が真っ赤になり、その場で固まってしまった。

 すると、このやり取りを見ていた、その子のお母さんが、すぐにフォローしてくれた。

 「あら、○○ちゃんが、自分で買ってきたの?」

 私は、小さく頷いた。

 「ほかのお友達は、お母さんに買ってもらったプラモデルを持ってきてるだけなのに、○○ちゃんは、わざわざ自分のお小遣いでプレゼントを買って来てくれたのよ。偉いわねー。」

 救われた!

 本当に救われた。泣く寸前だった私は、頭をなでられて、何とか立ち直った。

 お金持ちの家は、お母さんも優しいのか。

 その後、誕生日会には行かないようにしたが、K君(親が父と同じ会社、「6.3転機」参照)に招待された時は別だった。その時のゲストは、私ともう一人だった。

 家に入ると、お菓子が皿の上に盛られており、それをつまみながら3人でトランプなどをして遊んだ。昼時になると、家にいたK君のお父さんが、インスタントラーメンを作ってくれた。午後になると、母親がケーキを買って帰ってきたので、皆で分けて食べた。

 後日、K君は、誕生日の御馳走がインスタントラーメンだったのはうちだけだ、と言って嘆いていたそうだが、私は、その時、まったく違和感を感じなかった。むしろ、自らラーメンをふるまってくれ、その後も一緒に遊んでくれるなんて、何ていいお父さんなのだろうと思ったくらいだ。

 私の方も、一度だけ、母が誕生日会を開いてくれたことがあった。小学校6年の時だ。招待客は、学年で最も勉強ができた2人だった。どういうわけか、K君は呼ばなかった。成績が良くなかったからだろう。息子には、賢い子とだけ付き合わせたい、という母の気持ちがあったようだ。

 さて、誕生日会だが、おでんとケーキが、お膳の上に乗っていた。母は、料理が苦手だった。2人の箸は進まず、会話も弾まなかった。3人は、日頃、あまり親しくなかったせいもあるだろう。母が、何とか場を盛り上げようと、2人に話題をふっていたが、無言の時間が長く続き、大変気まずかったのを覚えている。

 母としては、息子のために精一杯の振る舞いをしてくれたのだろう。自分の誕生日会なのに、何の希望も出さず、母の為すがままだった私は、その時何を考えていたのだろう。母が満足してくれればいいと、ただそれだけだったのか。私立中学受験(「6.4私立中高一貫校に合格」を参照)の時もそうだが、自分のことなのに、他人事のように感じていた。

 亡き母を思い出すと、何とも胸が苦しくなる。最晩年のことだが、パーキンソン病と鬱と軽いボケを併発して入院していた母は、退院時、自分の家に帰ることを拒んだ。自分の部屋も、また、自分専用のテレビも無い自宅で、これ以上父と一緒に暮らすことに耐えられなかったのだと思う。

 そう言えば、家事ができなくなった母のことを、父は、「疫病神」と呼んで憚らなかった。本人がいる目の前でも。

 帰宅拒否は、母が、初めて自分の思いを表に出した瞬間かもしれない。仕方ないので、一時的に特養のショートステイに預かってもらったが、そこで、あっけなく亡くなってしまった。

 家の預貯金の口座は、すべて母の名義になっていた。そのことに、父はまったく気付いていなかった。母は、いったい何をしようと・・・

 あー、もうこれ以上は書けない。

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