6.6貧乏をこじらせたエピソード

 B「今度はお前の家にいこうぜ」

 −友人とは親密にならないようにする(中学1年)

 私立中学に入学すると、世界は一変した。回りは皆、「いい所のお坊ちゃま」なのだ。小学生時代は、近所の社宅の子供たちと遊んでいたので、自分が貧乏だと認識させられることはなかった。

 初めての夏休みの臨海学校では、学年の200人が泳力別にクラス分けされたが、泳げないのは、私を含めて6人しかいなかった。小学校にプールが設置されるようになるのは、東京オリンピックの後なので、当時小学校に水泳のカリキュラムはなかった。他の生徒は、親の指導か、あるいは民間のスイミングスクールで泳ぎをマスターしていたのだ。

 臨海学校では、1500mの遠泳があるのだが、皆、早々に検定に合格し、サッカーゲームなどに興じていた。私は、最終日の検定で、何とか最後から2番目にゴールした。

 また、入学当初は、クラスの友人の家に遊びに行くことも何度かあった。皆、広い家に住んでいて、自分の個室があるのが当たり前だった。ある日、

 「今度はお前の家にいこうぜ。」

 と言われた時には、心臓が飛び出しそうになった。

 私の家は、横浜市南部の小高い山の麓にあった。住所にも、「字(あざ)××谷戸」とあるように、平地のどん詰まりだった。そのため、最寄の国電の駅からは、徒歩で30分かかった。バスの便もあるが、10分乗った後、さらに停留所からは10分歩かなければならなかった。

 土地は借地で、そこに2Kの家が建っていた。玄関を入ると、すぐに私と妹の6畳の部屋があり、机2つと2段ベッドが置かれていた。そこを通り抜けると、4畳半の茶の間と台所があり、その奥に6畳の夫婦の寝室があった。

 中学の家庭訪問があった時の話だ。担任のドイツ人宣教師を駅まで迎えに行ったのだが、タクシーが家に近づくと、

 「入るね。」

 と言って、驚かれたのを覚えている。たしかに、初めての人は、深山幽谷に分け入るような感覚を覚えただろう。

 私がまだ小さかった頃、大雨で裏山が崩れ、床下まで土砂に埋まったこともあった。陽も当たらないし、買物にも不便で、何より危険な場所に、なぜ父は居を構え、ずっと住み続けたのだろう?

 安かった、というのが、一番の理由だろうが、苦手な人付き合いを避けたい、という思いもあったのではないか。本人に確かめたことはないので、定かではないが。

 その後、裏山は開発され、大型団地ができた。斜面には擁壁が設けられ、土砂崩れの危険はなくなった。

 私は、中学入学後しばらくして、友人の家に遊びに行くことはなくなった。友達付き合いも、あまり親密な関係にならないよう心がけた。なるべく、貧乏そうな子とだけ仲良くするようにした。例えば、親が小学校教諭の子とか、遠泳でビリだった子だ。私の卑屈で非社交的な性格は、こうして形成されていった。

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