7.再発する−40代

 7.1サリンを吸う(1995.3.20

 オウム真理教の信者が、霞ヶ関駅でサリンを撒いた。その10分後、通勤途上の私は、隣りの日比谷駅を通る地下鉄の車内にいた。

 30代ぐらいの男性が乗ってきて、コートの裾を翻して、私の隣席に座った。次の瞬間、スローモーションのように視野が狭まり始めた。左右両側は真っ暗である。ついに、視野は、正面の数cmだけになった。

 縮瞳である。

 「縮瞳(しゅくどう)」という言葉は後で知ったのだが、その時は、自分の身に何が起こったのか、まったくわからなかった。

 と同時に、猛烈な吐き気が押し寄せてきた。もう、何が何だかわからない。

 その男性は、2つ先の駅で降りた。すると、徐々に視野が広がり始め、やがて元に戻った。縮瞳は、時間にして4分ほどだったと思う。吐き気はまだ続いていたが、足を引きずるようにして、何とか会社にたどり着いた。

 すると、オフィス内は大騒ぎである。皆、テレビ画面を食い入るように見つめている。

 ここに至り、私はやっと事態を把握した。あの男性は、サリンが漂う空間を移動して、私の隣りに座ったのだ。なぜ、本人が平気だったのかはわからないが、コートに付着した微量のサリンを私が吸ったため、縮瞳が起こったのだろう。

 私は、会社の近くにある病院に行こうと思ったが、テレビでは、大勢の被害者が、その病院に担ぎ込まれている映像を流している。これではかえって危険と判断し、しばらく様子を見ることにした。

 仕事に取りかかれるはずもなく、私は日中テレビをながめていた。夕方帰宅して、少量だが食事も取れるまでに回復したので、結局、その後病院に行くことはなかった。

 この数年後、私は鬱病を再発するのだが、サリンを吸ったことが影響したかどうかは定かではない。サリンが脳にどう作用するかなどは、研究のしようがないからだ。だが、少なくとも、PTSD(心的外傷後ストレス障害)が、多くの人に発生したことはわかっている。私は、その後地下鉄に乗れない、というようなことはなかったので、PTSDにはならなかったが。

 とは言え、何らかの後遺症があった可能性は否定できない。その後、調子が下降気味になったような気もするからだ。はたして、サリンが、私の鬱のオキに火を付けることになったのであろうか。

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