7.2誰もやりたがらない仕事を受け部長に

 最初の鬱病発症後、私は、第一線の開発部門を離れ、品質管理部門と監査部門の課長を10年近く務めた。近年は、人事考課の評価も上向いてきたので、上司の推薦により、部長昇格試験を受けられることになった。

 試験は、外部の専門会社に委託されていて、1泊2日の泊まり込みで実施された。各部署から優秀な人材が集まり、ディスカッションや模擬プロジェクトのマネジメントなどで競い合った。合格基準は非公開だったが、自身の感触は微妙なものだった。上には上がいたからである。

 試験結果の本人への通知もなかったが、合格すれば、次の定期人事で部長になれる。だが、私に辞令は出なかった。落ちたということだ。

 もう一度だけ受けるチャンスが与えられているので、上司に翌年の受験希望を伝えた。すると、上司は、やおら一枚の横長の紙を懐から取り出し、私に見せた。試験結果である。

 私の名前の下には、リーダーシップ、交渉力、協調性、知識等々十数項目の評価欄が並んでおり、右端に合否判定欄があった。どの欄も空欄だった。合格基準は、×が一つも無いことと、最低一つの〇があることだと、こっそり教えてもらった。つまり、「とりたてて可もなし不可もなし」というのが、私の評価結果というわけだ。

 ガッカリしていると、上司はさらに続けた。実は、会長の肝入りで、中国でプロジェクトを立ち上げる計画がある、と言う。ついては、君がもしリーダーを引き受けてくれるなら部長にしてもいい、と人事が言っている、と小声でささやいた。

 当社は、もともと国内をマーケットとしていて、海外ビジネスの経験は乏しかった。数年前に、官公庁相手の事業部が、初めて中国国営銀行のシステムを手掛けたのだが、大失敗に終わった。日本の銀行のシステムを手直しして持っていく予定だったが、商慣習や法制度が異なり、結局ゼロから作る羽目になった。そのため、大幅な持ち出しとなったのだが、何とか期日までには完成させることができた。ところが、中国側は、不具合があると言っては、受け取りを拒否し続けた。

 そもそも、完璧なシステムを作ることなどできないので、日本の商慣習では、瑕疵担保期間1年以内に発生した不具合については無料で改修し、その後は有料で対応する、というのが通例であった。だが、中国側は、些細な不具合も容認しなかった。そのため、多数のエンジニアが中国に常駐して対応せざるを得ず、膨大な支出が継続した。

 やがては、創業以来の赤字決算に転落するほどの会社の危機となった。契約が甘かったと言えばそれまでだが、中国側には代金の支払を求めないかわりに、要員を引き揚げさせてもらうことで、何とか幕引きをした。

 その後、会社の業績は持ち直したので、再度中国ビジネスに挑戦することになったようだ。ただし、ビジネス規模は縮小し、中国企業と組んでのスモールスタートである。

 私に白羽の矢が立ったのは、TOEICの点数が795点という高得点だったからだろう。英語ができる人材は、そもそも当社には入社しない。私も、特に英語を勉強したわけではないが、中学高校でネーティブの宣教師に習ったことが大きいと思う。

 さて、中国だが、今から四半世紀前は、一人当たりのGNPは日本の1/10以下と貧しく、衛生環境や治安も悪かった。現在の発展ぶりからは、とても想像できないことだが。そのため、当時、中国に行きたいという人は皆無だった。だからこそ、昇格を餌にした打診があったのだろう。それと、私のような凡庸な人材なら、別に惜しくもないと、御偉方が判断したこともあると思う。中国ビジネスにエースは出さないから。

 当時の私は、住宅ローンを組んだばかりだったし、これから子供たちの教育費もかさむので、お金は必要だった。また、本来手が届かなかった「部長」の肩書が得られるのも大きかった。そんなこんなで、私は引き受けることに決めた。

 実際、年収は1.5倍に増加した。ちなみに、10年前に係長から課長に昇進した時には、収入はほとんど増えなかった。管理職になると残業手当が付かなくなるので、実入りはそれほど変わらなかったからである。

 と、ここまで書いてきて、ふと思った。

 この人事も、最初から仕組まれていた、ということはないのか?

 四半世紀も経った今頃になって、何をか言わんやだが、状況証拠は揃っている。自分から部長昇格試験を受けたいと言ったわけではない。上司から誘われただけだ。あまりにもタイミングが良すぎる。それに、空欄だった試験結果も怪しい。

 私が狙い撃ちにされ、ものの見事に一本釣りされたのではなかったか?

 まあ、人事なんて、そんなものかもしれないが。外部委託で公平性を担保しているように装っているが、実態はドロドロしているのだろう。

 ともあれ、私は国際部長となり、1年の半分近くを中国で過ごすことになった。中国の法律では、年に180日を越えると駐在扱いとなり、中国で所得税が課されることになる。それを避けるため、あくまでも、行ったり来たりの出張ベースで、プロジェクトを進めることとなった。 

次章 7.3中国企業との合弁契約が朝日新聞に

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