7.3中国企業との合弁契約が朝日新聞に
私のほか、係長1名、社員2名、通訳1名の5名体制で、中国プロジェクトは始動した。その後、新入社員として中国人留学生の面接を行い、優秀な1名を採用するとともに、協力会社とも契約し、コンサルタント1名と中国人エンジニア2名にも入ってもらった。
前回、銀行システムのような大規模案件を、当社単独で開発して失敗したことに懲りて、今回は、中国の大学系企業と組んで、民間用システムを共同開発することになった。工場向けのシステムなら、商習慣や法制度の影響が少ないと踏んだからだ。ベースとなるシステムは日本から持って行き、中国でカスタマイズする計画である。
プロジェクトメンバは、中国には2週間ほど滞在し、日本に戻って準備をして、また2週間後に中国に出張する、ということを繰り返した。現地の滞在先は、最高級4星ホテルである。当時、中国に駐在する場合、外国人専用のセキュリティ区画に居住するのが通例だった。現地の中国人が入れないので、比較的安全だったからである。だが、我々は出張ベースだったので、ホテルしか選択できなかった。4星でも、強盗や置き引きの被害にあったが、それほどの大事には至らないで済んだ。
また、衛生環境も劣悪だった。ホテル以外では食事をとらないように心がけていたが、それでも、入国4日目には、毎回全員が一斉にお腹を壊した。それは、中国人メンバも同じだった。
一度、街中のレストランでカツ丼を食したことがある。日本食に飢えていたからだ。だが、その後、三日三晩吐き続けることになった。ノロウイルスにやられたようだ。中国のウィルスは強烈だ。あんなに苦しい思いをしたことはない。水が違うとはよく言うが、日本のように食中毒の少ない国は他にない。それは、当時も今も変わらない。
さて、システム開発の方だが、設計は、当社の指導の下、中国の大学系企業のエンジニア35名ほどが担った。約1年で設計書は完成し、その後の本格的な開発に当たっては、合弁契約を締結することになった。この間、多くのスッタモンダがあったが、ここでは省略する。日本と中国の文化的な違いが主な原因だった、ということことだけは書き留めておこう。
契約のセレモニーは、当社の副社長を招いて、現地で実施した。当日は、テレビ取材もあり、かなりの盛り上がりだった。一方、日本では、特に記者会見は開かなかった。興味を抱くようなマスコミも無いだろうと判断したからだ。プレスリリースは、「投げ込み」(広報部に備えられた、各新聞社の棚に説明文書を入れておくので、好きに記事にしてかまわない、という方式)で済ませた。
契約後の雑務を済ませ、一人日本へ帰る便の機内でのことである。スチュワーデスさんに朝日新聞をもらって読んでいると、何と記事が載っているではないか!
日経産業新聞や日刊工業新聞などの業界紙には載ると思っていた。だが、朝日新聞のような全国紙に、たとえ数行とはいえ、1民間企業の記事が出ることは、滅多にないことだった。
思わず、涙がにじんできた。
私は、この功績により、人事考課で最高の評価を受け、給料もハネ上がった。
だが、上げ潮だったのは、この頃までである。これより、プロジェクトには暗雲が立ちこめる。
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