第1の謎:対馬国から伊都国までの記述が詳細なのに、伊都国から先の奴国・不弥国・投馬国・邪馬台国の記述があっさりしているのはなぜか?
魏志倭人伝に出てくる諸国の土地柄や生活の様子を、ここで表1に整理してみよう。
表1 諸国の記述の詳細度
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表1を見れば、一目瞭然であるが、魏志倭人伝の今までのところを読んで、真っ先に感じるのは、肝心の邪馬台国に至る後半の記述が、あまりにもあっさりし過ぎていることであろう。
対馬国、一支国、末盧国では、土地の様子や人々の暮らしが生き生きと描かれている。ところが、奴国・不弥国・投馬国・邪馬台国については、里程のみで国情は何も書かれていない。
さらに、里程についても、不弥国までは里数が具体的数字で示されているが、投馬国と邪馬台国は、水行陸行何日としか示されていない。
これはどういうことであろうか。
魏志倭人伝を書いたのは、陳寿という役人である。彼は、西暦233年に蜀で生まれ、蜀の滅亡後、晋の佐著作郎という修史官の役人となり、晋が天下統一したころ(280年)、三国志を完成させた。
陳寿は、倭のことをどうやって調べたのであろうか。それは、当時あった記録によるしかなかったであろう。帯方郡の郡使が倭国を訪れた際、出張報告書(復命書)を残していたはずだ。陳寿は、その記録を参照して魏志倭人伝を書いたと思われる。
そう考えた時、気になるのが、先ほどの伊都国のところの記述である。
「(帯方)郡の使者が往来する際に常に留まるところである。」
郡使は、伊都国までしか行っていないのではないか!?
それから先は、倭人に聞いた話を書き残しただけなのではないか。だから記述量が少ないのではないのか。
中国の使いをもてなすには、それ相応の施設や専門の係りの者が必要だろう。今日の迎賓館のようなものである。それが、伊都国にあった、いや、伊都国にしかなかったのではなかろうか。
伊都国には、代々王がいたとされている。とすれば、外交用の施設があったとしてもおかしくはない。
中国の使いが、女王のいる邪馬台国までは行かず、伊都国に常に留まっていたとしたら。これは、大変重要なポイントである。というのは、魏志倭人伝では、倭人の風俗習慣が詳細に記されているが、情報源は、対馬国から伊都国までが対象となっていて、そこから先、邪馬台国までの事情は魏志倭人伝には書かれていないということになるからだ。
だが、この大前提は、成り立つのであろうか。魏志倭人伝には、魏の使いが倭王に会ったという記述がある。このことを次の謎で見てみよう。