第2の謎:魏の使いは邪馬台国まで行って卑弥呼と対面したのか?
『正始元年、太守弓遵遣建忠校尉梯儁等、奉詔書印綬詣倭國、拜假倭王、并齎詔賜金・帛・錦[四/(炎リットウ)]・刀・鏡・采物。倭王因使上表答謝恩詔。』
「正始元年(240年)、太守弓遵が建忠校尉梯儁らを遣わし、詔書・印綬を奉って倭国に詣でて、倭王に拝仮し、詔を読み上げ、金・帛・錦[四/(炎リットウ)]・刀・鏡・采物を与えた。倭王は使者に上表し、その中で詔勅に対する謝意を表した。」
魏志倭人伝のほとんど最後の部分の記述である。これによれば、倭王卑弥呼が、勅使である梯儁をふしおがんで金印紫綬を受けたことになり、二人は確実に対面していることになる。
魏の使者は、邪馬台国まで行っているのだ。謎1で考えたような伊都国までしか行ってないということはない。
いや、待てよ。卑弥呼が、伊都国まで出向いて、そこで魏の使者と落ち合ったということは考えられないであろうか。
それはないであろう。中国から册封国に派遣された使者が、その国の都まで行かなかったことはありえない。宗主国の外交が、册封国の都でなされることは、東アジアの歴史の通例である。
やはり、素直に魏志倭人伝を読めば、魏の使者は、邪馬台国まで行って卑弥呼に会ったのだ。
では、なぜ、伊都国から先、奴国・不弥国・投馬国・邪馬台国については、国情の記述がないのであろう。
郡使が邪馬台国へ行ったのは、おそらく正始元年に金印を届けたのが初めてだったろう。
この時の郡使梯儁は、詔書・金印紫綬を倭王に渡すという使命に懸命で、途中の倭国の国情を記録する余裕がなかったのではなかろうか。もちろん距離も測っておらず、水行や陸行の日数を書き留めるだけで精一杯であったのだ。
邪馬台国は、それだけ遠い場所にあるという気がする。
そういうわけで、表1の謎は、このように考えるしかないと思うのだが、どうであろうか。