第4の謎:魏志倭人伝に出てくる「国」の規模がバラバラなのはなぜか?

 

 魏志倭人伝に出てくる「国」の戸数/家数を原文と現代語訳で、表2に整理してみる。

 

            表2 諸国の戸数/家数

国名

比定地

戸数/家数(原文)

戸数/家数(現代語訳)

対馬国

対馬

有千餘戸

千余戸

一支国

壱岐

有三千許家

三千ほどの家

末盧国

東松浦郡

有四千餘戸

四千余戸

伊都国

糸島郡

有千餘戸

千余戸

奴国

福岡市・春日市

有二萬餘戸

二万余戸

不弥国

宇美?

有千餘家

千余家

投馬国

可五萬餘戸

五万余戸ばかり

邪馬台国

可七萬餘戸

七万余戸ばかり

 比定地の問題は、さておくとして、表2に示すように、戸数/家数の規模が、小は対馬国・伊都国・不弥国の千から、大は投馬国の五万や邪馬台国の七万まで、大きな差があるのはどういうわけだろう。

 対馬国や一支国は、独立した島なので、一つの国とするのはいいだろう。奈良時代などでも一国として扱われていた。

 末盧国、伊都国、奴国、不弥国は、奈良時代の一国よりはるかに狭い。郡の一つか二つ分といった感じである。これらは、自然の地形に従って国の単位が決められていたのであろうか。

 奴国は、今の福岡平野に当たるとすると、二万余戸という数字もうなずける。稲作を生業とする弥生時代においては、九州有数の平野を有する奴国は、人口が集中していたのであろう。

投馬国と邪馬台国は、それぞれ五万余戸と七万余戸という巨大な戸数を擁している。

ところで、魏志倭人伝の著者も、投馬国と邪馬台国については、戸数に「可」と「余」の曖昧さをあらわす字を二つ用いている。数字の信頼性について自信がないことの表れであろう。

それはさておき、北部九州から水行二十日行ったところに、福岡平野の数倍ある広大な平野を有する国があったのであろうか。さらに水行十日陸行一月行ったところに、もっと大きな平野の国があったのであろうか。そう考えるのも一つであり、素直な読み方である。

もう一つの考え方は、投馬国と邪馬台国は、広い地域を統合して支配していたのではないかというものである。

 邪馬台国の時代は、戦争の時代である。ということで、似たような状況としてヒントになるのが、日本の戦国時代である。

 戦国時代末期の日本列島の状況を思い出してみよう。織田氏は、濃尾から近畿にかけてのかなり広範囲の地域を支配していた。毛利氏も中国地方の大部分を、また、北条氏も、関東地方の大部分を版図としていた。一方で、東北地方などは、伊達、最上、芦名、佐竹、津軽、南部などの戦国大名が割拠している状況だった。

 邪馬台国の時代も、統合が進んだ地域と、地方勢力が割拠している地域とが混在していたのかもしれない。つまり、投馬国と邪馬台国は、広い地域を統合して支配していたので、戸数が多かったと考えるのである。

 2つの考え方のANDをとることもできる。邪馬台国(あるいは投馬国も)は、広い平野を有していた国であり、なおかつ周辺地域を統合支配していた、というものだ。

 だが、魏志倭人伝に出てくる対馬国から不弥国まで、広い地域を統合していた国はない。投馬国と邪馬台国だけが別だと考えるには、根拠がない気がする。

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