第5の謎:一支国と不弥国だけ「家」が戸数の単位として用いられているのはなぜか?
表2 諸国の戸数/家数(再掲)
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表2を見てほしい。一支国と不弥国だけは、「戸」ではなく、「家」が単位として用いられている。これはどういう意味があるのだろう。
一支国が壱岐であるのは、ほぼ疑いないであろう。
壱岐では、原の辻遺跡という三重の環濠に囲まれた巨大な環濠集落が発見されている。一大ブームとなった佐賀県の吉野ヶ里遺跡にも匹敵する遺跡だ。
環濠内24ヘクタール、遺跡全体では100ヘクタールという巨大さである。間違いなく、一支国の首都だと考えられる。魏志倭人伝に出てくる国の中で、唯一首都が判明した遺跡である。
ここには、深江田原(ふかえたばる)という長崎県随一の平野があって、多くの人口を養えたことだろう。人家も密集していたに違いない。
魏志倭人伝の「やや田地あり」という記述は、丘陵の縁辺で水田を構え、台地の上では畑を作っている原の辻遺跡の情景そのものである。
「南北に交易を行っている。」という記述も、原の辻遺跡における各地の産物の出土状況で納得できる。中国産の銅鏡、銅剣、貨泉、トンボ玉、また、朝鮮半島産瓦質土器が出ている。倭国の物では、北部九州産の銅矛や、さらには備後(広島県東部)の鋸歯文壺などもある。
魏志の弁辰の条には、「弁辰で取れる鉄は、韓・わい・倭の人たちはこれを取って、諸々の売買に使う」という記述がある。対馬、壱岐の人々は、さかんに朝鮮半島に出かけて交易を行っていたと思われる。
ところで、原の辻遺跡には、何戸の家があったのだろう。考古学的に検証するには、広大な遺跡全体を発掘調査しないことにはわからない。それは、現時点では困難である。しかし、一つのヒントがある。横浜市にある弥生時代の環濠集落跡である大塚遺跡がそれである。
大塚遺跡は、集落全体を発掘した数少ない例である。規模は2ヘクタールと、原の辻遺跡よりも一桁小さいが、遺跡の全貌が明らかになっている。
魏志倭人伝の冒頭で見たところの『依山島爲國邑』に記される国邑の「邑」とは、大塚遺跡のような拠点集落の中心地であろう。
調査結果によると、同時存在したのは、20軒の住居であった。一軒あたり5人だとすると、総人口は100人になる。
住居の密度は、2ヘクタールで20軒だから、一軒当たり0.1ヘクタールである。原の辻遺跡の総面積は100ヘクタールなので、1000戸が立っていたという計算になる。
魏志倭人伝によれば、一支国には3千余家があったとあるので、三分の一が原の辻遺跡に住んでいたことになる。遺跡の周辺や深江田原にもかなりの人は住んでいただろうから、一支国の全人口の半分くらいが、この遺跡に集中していたと考えてもいいだろう。
「家」という字は、ウカンムリが付いているが、これは屋根を表している。一支国は、住居の集中度が高く、屋根が連なっているという印象が強くて、「戸」ではなく、「家」を単位に使ったのではなかろうか。
一方、不弥国も、仮に宇美盆地だとすると、狭い小盆地に千余家の家々が連なっていたことになる。
ここで、他の国を見てみよう。
末盧国については、魏志倭人伝には山際や海岸に沿って家が建っていると記述されている。かなり、広い範囲にわたって四千余戸に分散して住んでいたので、「戸」という単位を使ったと思われる。
奴国も然りである。広い平野にまんべんなく人が住んでいたに違いない。
ただ、陳寿が気まぐれに「戸」と「家」を意識せずに使ったという可能性も考えられるが、どうだろうか。
だが、わたしは、そうは思わない。魏志倭人伝の記述はきわめて厳密である。前にも述べたように、投馬国と邪馬台国については、戸数に「可」と「余」の曖昧さをあらわす字を二つ用いていたのを思い出してほしい。また、他にもある。例えば、次のような記述である。表1の里程の欄をもう一回みてほしい。
対馬国、一支国、末盧国までは、千余里と、「余」を付けているが、伊都国、奴国、不弥国までは、きっちり何百里と記している。この違いは、前者が一海を渡るケースであり、後者は陸行のケースだからである。海上では距離を正確に測ることは難しい。陸ならば、歩測もできるし、正確な距離を割り出すことも可能だったろう。
魏志倭人伝の著者である陳寿は、一文字一文字に入念な注意を払って書いていると言える。「戸」と「家」を使い分けたのも、何らかの陳寿のメッセージがあると考えるべきだろう。
したがって、邪馬台国は、「戸」が使われているので、狭い地域に人家が密集していたというより、ある程度広い範囲に人が居住していたということになるだろう。