国の話が続いたので、魏志倭人伝冒頭からあらためて疑問点を考えておこう。
倭人の国は、「もともとは百余りの国があって」とある。百という数字は、信憑性があるのであろうか。
ここで、お隣の韓国を見てみよう。魏志韓伝では、馬韓50余国、弁韓12国、辰韓12国となっている。あわせて、74ヶ国である。この数字を見る限り、何となく百余というのは妥当な気がする。
この百余りの国は、日本列島のどこまで広がっていたのであろうか。
奈良時代から戦国時代・江戸時代にかけて、日本の国の数はあまり変わっていない。若干の変動はあるが、66ヶ国と言っていいだろう。
応仁の乱の西軍の総大将である山名氏は、「六分の一殿」と呼ばれたが、これは、中国一円の11ヶ国の守護を占めていたことに由来する。
関八州などという言い方もある。関東地方の上野、下野、常陸、武蔵、下総、上総、安房、相模の8ヶ国を指す。
そもそも九州というのは、筑前、筑後、豊前、豊後、肥前、肥後、日向、大隈、薩摩の9ヶ国を言うのであり、四国とは、阿波、讃岐、伊予、土佐の4ヶ国のことである。
では、66ヶ国と魏志倭人伝の百余りの国とは、対応するのであろうか。
表2で見てきたように、魏志倭人伝で戸数のわかっている8ヶ国の規模はまちまちである。投馬国や邪馬台国のような大国もある。一方、千戸しかない1郡から2郡にしかならない国もある。
前者を基準にすれば、魏志倭人伝の百余りの国は、日本列島の全体に及んだ(ただし、北海道は除いたほうがいいだろう。66ヶ国にも入っていない。)といえるし、後者を基準にすれば、百集めても九州の北半分くらいにしかならない。
ただ、縄文時代でさえ、黒曜石やヒスイなどは、日本列島のかなり広範囲に運ばれている。まして、弥生時代なら、人の居住しているところ、必ず交流はあったと思う。その情報は、当然中国にも伝えられていたと考える。倭人の国の範囲を、例えば北部九州だけに限定してしまうことはできないような気がするがどうだろうか。