第10の謎:「郡から女王国に至るまでは、一万二千余里」とわかっているのならば、邪馬台国の場所は引き算でわかるのではないか?

 

 ここで、帯方郡から不弥国までの里程を表3に整理しておく。

 

  表3 帯方郡から不弥国までの里程

 国名

里程

帯方郡→狗邪韓國

七千余里

→対馬国

千余里

→一支国

千余里

→末盧国

千余里

→伊都国

五百里

→奴国

百里

→不弥国

百里

合計

一万七百里+4?

 魏志倭人伝の狗奴国のところの最後に大変気になる一文があったのに、気付かれたであろう。倭人の習俗の説明に移る前の最後の文である。

「郡から女王国に至るまでは、一万二千余里である。」

 なんだ。帯方郡から邪馬台国までの距離が示されているではないか。表3でも明らかなように帯方郡から不弥国までの距離の合計は一万七百里である。帯方郡から末盧国までは海上を行くので、余里という+?が4つあるが、一万二千余里にも+?があるので相殺すると、不弥国から邪馬台国までは千三百里という計算になる。

 千三百里というと、末盧国から不弥国のおよそ倍の距離である。どう考えても、邪馬台国は九州内かその近くにしかならないではないか。邪馬台国九州説で決まりか。

 ところが、そうはいかない。思い出してほしい。表1で、不弥国から投馬国へは水行二十日、さらに邪馬台国までは、水行十日陸行一月かかるのである。千三百里を行くのに、水行三十日陸行一月もかかったのであろうか。

なお、『水行十日陸行一月』を“水行なら十日、陸行なら一月”と読む説があるが、漢文としては誤読である。

 また、『水行十日陸行一月』を帯方郡からの行程とする説があるが、これも漢文としては明らかな誤った読み方である。

 さて、いったい水行や陸行では一日にどれだけ進めるのであろうか。魏志倭人伝には全く手掛かりがない。そこで、後の代になるが、唐の公式令を見てみよう。これには、次のような規定がある。

「其の水程は、重船の流れを遡るには河(黄河)は日に三十里、江(揚子江)は四十里、余水(その他の河川)は四十五里・・・。重船の流れに従うには、河は日に一百五十里、江は一百里、余水は七十里・・・」

上りと下りではかなり進める距離が違う。黄河や揚子江は流れが早いのでそういうことになるのであろう。沿岸海上交通は、余水(その他の河川)の上りと下りの平均値の一日六十里程度と考えていいのではなかろうか。

 とすると、水行で三十日だと、千八百里ほど行けることになる。

一方、陸行の場合はどうであろうか。宋代に成立した後漢書南蛮伝につぎのような一節がある。

「軍行は三十里を程と為す」

 ということは、陸行一月だと、九百里進めることになる。

 つまり、不弥国から邪馬台国まで水行三十日陸行一月だと、千八百里+九百里=二千七百里ほどの距離になり、千三百里を倍以上オーバーしてしまうということになる。従って、九州内におさまりそうにない。

 ただし、今までの議論は、魏の時代の一里と唐代や宋代の一里が同じ距離であるという保証はないので、あくまでも概算と言うことになる。

さて、邪馬台国論争は、結局のところ、

@     不弥国から邪馬台国まで水行三十日陸行一月という日程と、

A     不弥国から邪馬台国まで千三百里と読み取れる里数に、

矛盾があることによる。

 今まで、帯方郡から邪馬台国まで、連続的に里程が示されているという前提で話を進めてきたが、魏志倭人伝をそうは読まないという画期的な考え方があらわれた。上記の矛盾を解決する説である。次の謎で示そう。

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