第11の謎:伊都国までが「道程(里)、至、国名」の標記順なのに対して、伊都国より先が「至、国名、道程(里・日)」の標記順なのはなぜか?
帯方郡から邪馬台国に到るまでの里程・地名について、原文を表4に再掲する。
表4 里程・地名の表現の違い
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表4をよく見てほしい。
狗邪韓國から伊都国までは「里、至、地名」の順番に記述されているのに対して、伊都国から先、邪馬台国までは「至、地名、道程(里・日)」の順番に記述されている。明らかに伊都国がターニングポイントになっている。
もう一つ注目してほしいのが、「到」と「至」の字の使い分けがされていることである。狗邪韓國と伊都国は「到」で、それ以外は「至」の字が使われている。
「到」にはやっと到着したというニュアンスがあるのかもしれない。狗邪韓國は、倭国の北岸であり、帯方郡からはるばる七千余里かけてやっと着いたという国である。また、伊都国も郡使が常駐するところであり、やはりやれやれ着いたかという国である。
以上のような点に注目したのが、放射読みである。これは、伊都国までは連続読みだが、その先は、伊都国から奴国、伊都国から不弥国、伊都国から投馬国、伊都国から邪馬台国というふうに、伊都国を起点にする読み方である。
放射読みは、九州説におおいにエールを送ることになった。表3をもう一度見てみると、帯方郡から伊都国までは一万五百里である。邪馬台国までの総距離は一万二千里であるから、残りは千五百里である。
放射読みに従えば、これに水行十日陸行一月要したことになる。先ほど、水行は、一日六十里、陸行は一日三十里と割り出したが、以下のように見事に計算が成り立つ。
60×10+30×30=1500
つまり、邪馬台国は、伊都国から千五百里離れたところにあり、水行十日陸行一月でいけるということになる。これなら九州内に比定することも可能である。
放射読みが成立するかどうかは何とも言えない。読者(この場合は魏の役人であろうが)に対して、途中で読み方の転換を強いることにもなる。また、中国の他の歴史書で、「到」と「至」の使い分けがされた例がないのも難点である。