第15の謎:伊都国に王がいて、金印の出た奴国に王がいないのはなぜか?
奴国の話が出たので、ここで、金印の謎に迫っておこう。奴国は、光武帝から金印を賜った国のはずだが、王がいないのはなぜか。
現在国宝となっている金印は、天明四年(一七八四年)に志賀島の百姓、甚兵衛が大きな石をどけようして偶然発見したものだ。志賀島は、博多湾に浮かぶ小さな島だが、現在は砂嘴によって陸続きになっている。弥生時代当時は、文字通り島だった。
五世紀に編纂された後漢書に、次のような一節がある。
『建武中元二年(西暦五七年)、倭奴國奉貢朝賀。使人自稱大夫。倭國之極南界也。光武賜以印綬。』
「建武中元二年(57年)、倭奴國、貢を奉じて朝賀す。使人自ら大夫と称す。倭国の極南界なり。光武賜うに印綬を持ってす。」
倭の奴国が後漢に朝貢し、皇帝から印綬をもらったということである。魏志倭人伝の冒頭に「漢の時には朝見する国もあった。」という記述は、このことを指している。(なお、奴国を倭国の極南界としたのは、魏志倭人伝の「其の余の旁国」の最後にでてくる奴国と誤解したためと思われる。)
発見された「漢委奴国王」と刻まれた金印は、後漢書に記された奴国に与えられたものということになっている。邪馬台国の時代より200年ほど前のことだ。
はたして本物なのかどうか。サイズが、当時の中国の寸法にピッタリだったこと、つまみの蛇の形が、中国南方の雲南の王に贈られた金印のものと類似していたこと等から、今では本物ということになっている(筆者は、江戸時代に福岡藩によって捏造された、と睨んでいるが、真実が明らかになっても、得をする人はあまりいないだろう)。
なぜ志賀島に埋まっていたのか、納得できる説明はいまだ聞いたことがない。出土状況からすると、逃亡の末、追い詰められて、慌てて隠したという印象を受ける。
この金印にどんなドラマがあったのであろうか。金印が同時に2つあっていいわけがないので、卑弥呼が金印をもらった時にあわてて埋められたのであろうか。全く謎である。
印面の読み方は、「漢の委(倭)の奴の国王」と読むのが普通である。志賀島のある奴国で見つかったので、倭国の中の奴の国王というわけである。だが、この読み方には大いに疑問がある。
まず、第一に、中国の印制のルールは、「授与国(中国)と被授与国(周辺国)」の二段構成である。三段構成の例はない。
第二に、倭国の中の一国に過ぎない奴国の王に対して、金印を授与するであろうか。銅印がせいぜいであろう。
そこで、「漢の委奴(イド)の国王」と読むと主張する学者もいる。もしかしたら、これは伊都国王かもしれない。とすると、もともと奴国には「王」はいなかったことになる。
ただし、音韻学上は“イト”と読むのは成立しないようだから何とも言えない。
志賀島も、奴国の中心地である春日市よりも、伊都国の中心地である前原市の方が距離的に近い。志賀島が奴国に属すると決めてかからない方がよい。