第16の謎:末盧国から不弥国まで陸行したのはなぜか?
末盧国から不弥国まで、玄海灘沿岸を陸行するのは極めて不自然である。
帯方郡使は、当然自分たちの船でやってきただろう。途中で倭国の船に乗り換えたとは、ちょっと考えにくい。万一の時には、すぐに帰れるように、自前の船でやってきただろう。
平清盛の時代の日宋貿易でも、宋船は兵庫の港までやってきた。江戸時代でも長崎の出島まで中国船は来ている。だいたい荷物があるから、船で行けるところまで行っただろう。贈り物に銅鏡百枚を持ってきたとしたら、とても担いで運ぶ気にはなれない。
前に一大率のところで見たが、魏志倭人伝には「(帯方)郡の使者が倭国に赴く時に、(倭国の刺史たちが)皆、港に出迎え」とある。邪馬台国より北の国々では、港があることが記されているのだから、伊都国まで船で来てもよさそうである。にもかかわらず、陸行しているのはなぜであろうか。
最も考えられる理由は、水行よりも陸行の方が安全だということである。特に、外海である玄界灘を航海するのは、天候の急変などで、常に危険を伴う。大きな荷物などは船で運んだとしても、人員は陸路を進んだのではないか。
また、水行では、点と点を結ぶ道行きとなるが、陸行なら線で倭国の人々と交歓できる。
その他の理由としては、倭国の地勢についても調査しておきたかったのであろう。中華帝国として、周辺友好国の情報を少しでも集めておきたいという欲求があったと推測する。
このことは、対馬や壱岐などの島でも同じである。国情を把握しているということは、やはり陸路を進んだということである。島の北端に上陸して、島を縦断し、また、島の南端から船に乗ったと考えられる。