第18の謎:邪馬台国の周辺国21ヶ国はどこか?

21ヶ国を再掲する。もし、周辺国の場所が特定できれば、邪馬台国の位置について、大きなヒントになる。

『自女王國以北、其戸數道里可得略載、其餘旁國遠絶、不可得詳。次有斯馬國、次有已百支國、次有伊邪國、次有都支國、次有彌奴國、次有好古都國、次有不呼國、次有姐奴國、次有對蘇國、次有蘇奴國、次有呼邑國、次有華奴蘇奴國、次有鬼國、次有爲吾國、次有鬼奴國、次有邪馬國、次有躬臣國、次有巴利國、次有支惟國、次有烏奴國、次有奴國、此女王境界所盡。』

「次に斯馬國が有り、次に已百支國が有り、次に伊邪國が有り、次に都支國が有り、次に彌奴國が有り、次に好古都國が有り、次に不呼國が有り、次に姐奴國が有り、次に對蘇國が有り、次に蘇奴國が有り、次に呼邑國が有り、次に華奴蘇奴國が有り、次に鬼國が有り、次に爲吾國が有り、次に鬼奴國が有り、次に邪馬國が有り、次に躬臣國が有り、次に巴利國が有り、次に支惟國が有り、次に烏奴國が有り、次に奴國が有る。ここが女王の支配する境界の尽きる所である。」

一つ気付くことがある。「次有」の連続は、簡潔を旨とする漢文としては冗長だということである。魏志倭人伝における他の国の記述はどうなっているであろう。

魏志東夷伝韓条で、馬韓に五十余ヶ国があることを述べている箇所は、最初に「有」を置いて、あとは国名のみを羅列している。弁韓と辰韓で併せて二十四国があることを述べている箇所も同じである。

魏志倭人伝における「其の余の旁国」は、21ヶ国が順次に南に連なっているということを示しているのではないか。「女王の境界の尽くる所」である奴国が最後にあり、さらに、その南に狗奴国があるという地理像を魏志倭人伝の著者陳寿は持っていたと考えられる。

この点については、後の謎で触れることとする。

さて、21ヶ国はどこに当たるのだろう。江戸時代以来、今まで多くの人が21ヶ国の比定を行ってきた。しかし、万人に認められた比定地は、一国としてない。

比定のしかたは、和名抄の郡名、郷名の中から似た音を当てはめるものが通例である。和名抄とは、平安時代中期に、勤子内親王の求めに応じて、源順(みなもとのしたごう)が編纂した辞書である。その第12部には、古代律令制における行政区画である国・郡・郷の名称が網羅されている。

しかし、邪馬台国の時代から700年ほど後の地名が、はたしてどれだけ合致するか、まったく心もとない。意地悪く言ってしまえば、どうにでもこじつけられるのである。

例えば、21ヶ国の中で1文字の国である「鬼国」を考えてみよう。「鬼」は、誰が読んでも、「キ」だろう。そこで、和名抄の国・郡名から探してみると、まず誰でも思いつくのは、紀伊の国、今の和歌山県である。しかし、山城国にも紀伊郡というのがある。また、肥前にも基肄郡がある。国の特別史跡である基肄城のあるところだ。

そんなわけで、その気になれば、鬼国を和歌山県にも、京都府にも、佐賀県にも持ってくることができる。国・郡まででもこの有様である。まして、郷まで広げたら、収拾がつかなくなる。そんなわけで、ここでも決め手がないのである。

もう一度、原文を見てみよう。何かヒントはないか。一つ、気が付くことがある。

××奴国という国が、7つある。彌奴國、姐奴國、蘇奴國、華奴蘇奴國、鬼奴國、烏奴國、奴國である。21の三分の一とは、ちょっと多い気がする。

「奴」は、ナとかヌとかドと読まれる。「奴」とは何を表しているのだろう。魏志倭人伝のはじめに出てくる奴国を考えてみよう。二万余戸もある福岡平野の国である。

もしかしたら、「奴」とは「野」ではないのか。稲作で生計を立てていた弥生人は、当然、平野に多くの人が住んでいただろう。そこに国ができるのは自然のことだ。

21ヶ国のうち7ヶ国は、平野の国だったのではなかろうか。女王の支配する境界の尽きる所である奴国も平野の国であった。

とりあえず、わかることはこのくらいであり、21ヶ国の比定は困難だ。

ただ、考古学的には、こうした国の首都と見られる遺跡は、最近各地で発見されている。

吉野ヶ里遺跡は、もちろんのことだが、他にも、例えば、滋賀県守山市の伊勢遺跡は、東西700m、南北400mの楕円形の環濠を持つ集落遺跡で、邪馬台国と同時代である。28ヘクタールあるから、環濠内は吉野ヶ里や原の辻遺跡と同等クラスの大きさである。

1992年には、88平方メートルという当時弥生時代最大の建物跡なども見つかっている。

また、鳥取県の妻木晩田遺跡は、紀元前一世紀から三世紀にかけての集落遺跡である。

170ヘクタールに、竪穴住居400以上が見つかっている。海浜に面した丘の上にある遺跡の景観は、魏志倭人伝の「山島に依りて国邑を為す」を彷彿とさせる。

21ヶ国の候補地は、日本全国にあるということだ。

 第19の謎