第19の謎:女王国に敵対した狗奴国はどこにあったか?

 

女王の支配する境界の尽きる所である奴国の南にあるという狗奴国は、どこに比定されるであろうか。狗奴国も奴の国、つまり平野の国である。そこがどこかは明記されていない。

 

では、先ほどの狗奴国の王が出てきたところから、さらに先を読んでみよう。

 

『倭女王卑彌呼與狗奴國男王卑彌弓呼素不和。遣倭載斯・烏越等詣郡説相攻撃状。遣塞曹掾史張政等因齎詔書・黄幢、拜假難升米、爲檄告喩之。』

 

「倭の女王卑彌呼は、狗奴國の男王卑彌弓呼ともともと不和であった。倭の載斯・烏越等を(帯方)郡に遣わし、たがいに攻撃する様子を説明した。塞曹掾史張政等を遣わし、詔書・黄幢をもたらし、難升米に授け、檄文をつくってこれを激励した。」

 

この後は、卑弥呼の死の話になるので、狗奴国との関係はここだけである。

 

魏は、卑弥呼の使者である難升米に対して、詔書・黄幢(軍旗)を与え、檄文をつくって難升米を激励している。魏は、相当卑弥呼に肩入れしている。もともと不和であったとあるので、かなりの期間、卑弥呼と卑弥弓呼は対立関係にあったと考えられる。たがいに攻撃しているとあるので、相当の激戦だったと考えられる。

 

邪馬台国連合29ヶ国と対等に戦える狗奴国というのは、強大な力を有していたに違いない。もしかしたら、一国ではなくて、同じように連合国家だったかもしれない。魏志倭人伝の冒頭では、倭国はもともと百余国あったとする。残りの70国のうちのかなりの国が狗奴国連合に参加していたのではないかとも考えられる。

 

では、狗奴国はどこにあったのか。

 

九州説では、これを熊襲(くまそ)の国と考える人が多い。熊本県以南の南九州に比定するのである。「クナ」と「クマ」は、音が似ている。また、和名抄にも、肥後国に球麻(くま)郡がある。狗奴国は、南九州を支配する王国だったのであろうか。

 

だが、はじめにも触れたように、狗奴国は平野の国である。邪馬台国七万余戸に対抗できるような人口を養えるような広大な平野が、南九州の地にあるだろうか。

 

日本地図を開いてみよう。平野と書かれているのは、熊本県の菊池平野、熊本平野、八代平野、鹿児島県の出水平野、川内平野、国分平野、肝属(きもつき)平野、宮崎県の宮崎平野ぐらいである。だが、どれも小粒だ。

 

このうち、熊本県の菊池平野は、狗奴国の官が「狗古智卑狗」なので、「菊池彦」に当てて、ここを狗奴国に比定する人もいる。だが、平野としてはかなり狭い。

 

鹿児島県の国分には、国指定史跡の隼人塚がある。直径10mほどの小さな古墳で、上に高さ3mほどの銅製の埴輪像が乗っかっている。大和朝廷に抵抗して敗れた隼人たちを葬ったと伝えられている。邪馬台国の時代からはだいぶ下るが、一大抵抗勢力がこの地にあったことは確かだ。しかし、国分平野もかなり狭い。

 

宮崎平野には、国の特別史跡の西都原古墳群がある。巨大古墳が群集している地域である。ここは、妻という場所で、都万(つま)神社がある。魏志倭人伝の投馬国に比定する人もいる。宮崎平野は、奴国の福岡平野と匹敵する広さを有するが、それでも広くはない。やはり、ここが狗奴国かというと疑問である。

 

以上のように、九州説だと、狗奴国の根拠地となるべき適当な平野が見当たらない。

 

近畿説だと、候補は2つある。地図帳を開くまでもない。一つは、濃尾平野であり、もう一つは関東平野である。

 

濃尾平野では、邪馬台国の時代頃から、独自の古墳文化が花開いていた。前方後方墳である。近畿や西日本とは異なる葬制をもった集団が、この地にいたことになる。前方後方墳の総数は300基ほどと、前方後円墳が全国で約5200基あるのに対して、数的には著しく少ない。前方後方墳は、東海地方を中心として、以東、以北に多く分布している。

 

ここで、能登の王墓と言われる(地元の人が言っている)雨の宮古墳群のことに触れよう。邑知潟平野を望む能登の中心の山の上に、全長64mの前方後方墳と全長66mの前方後円墳が同居している。わずかに前方後方墳の方が高い位置に築かれている。能登は、濃尾の勢力と近畿の勢力の接点だったのかもしれない。

 

狗奴国が、濃尾平野の国だったとした場合、問題が一つある。「クナ」「クヌ」に類似する音の国・郡名が、和名抄の尾張国にも美濃国にもないことである。

 

その点、関東平野は、問題ない。「毛野(ケヌ)」がそれである。現在の群馬県は、上野国(カミツケヌノクニ)であり、栃木県は、下野国(シモツケヌノクニ)である。両地域とも巨大古墳の集中する地域である(もちろん邪馬台国の時代より後のものであるが)。日本最大の平野である関東平野が、狗奴国の本拠だと考えることは、十分可能だろう。

 

魏志倭人伝よりだいぶ後の時代になるが、945年に編纂された旧唐書(くとうじょ)に、「日本国は倭国の別種なり。」「日の出る所に近いので日本といった」という記述がある。

 

つまり、倭国の東の果てに日本国という別の国があったというのである。日本国を関東の勢力とし、狗奴国の残映と考えることもできる。

 

ただ、この場合、濃尾平野の勢力は、女王国に属していたのか、狗奴国に属していたのかは不明である。

 

そもそも、日本国内を二分するような争いには、歴史上どのようなものがあるであろうか。ちょっと思いだしてみよう。

 

まず、真っ先に思い付くのが、天下分け目の関が原の戦いであろう。東西両軍二十万の軍勢が、美濃国の関が原で激突した。この戦いで、徳川家康が勝って、天下を手中にしたのは御存知のとおりである。

 

その前の源平の戦いはどうであったろう。東国の覇権を握った源頼朝は、墨俣川を境に、その東側は自分が差配すると宣言している。墨俣川も、やはり美濃国である。現在の羽島市あたりである。

 

七世紀におきた古代最大の戦争である壬申の乱についても触れておこう。不破の関を封鎖した大海人皇子は、東海道、東山道の諸国から兵を動員することができるようになった。

 

一方の近江朝廷側の大友皇子は、吉備、筑紫に兵力動員を命じる使者を派遣したが、思うように兵は集まらなかった。そこで、近隣諸国から兵力を集めて対抗し、激戦になったが、最後は大海人皇子が勝利した。大海人皇子は、大和国に飛鳥浄御原宮を造って、天武天皇として即位した。

 

この不破の関も美濃国にある。関が原のすぐ近くである。

 

こうして見てくると、歴史上天下を二分する戦いは、美濃国を接点として行われている。それは、日本の地形上、交通上、必然的にそうなるのであろう。はたして、邪馬台国と狗奴国も同じであったのであろうか。

 

また、一つ注目すべきは、いずれの戦いでも東側が勝利していることである。邪馬台国の対狗奴国戦は、かなりの苦戦だったのかもしれない。残念だが、魏志倭人伝には、最終的にどちらが勝ったのかは記されていない。

 

狗奴国は、南九州の熊襲か、それとも濃尾平野の勢力だったのか、あるいは関東平野の勢力だったのか。それともどこか全然違う場所にあったのか、邪馬台国の場所を考える上で重要なポイントだ。

 

第20の謎