第20の謎:会稽東冶の東に倭国はあったのか?

 

今まで、魏志倭人伝の冒頭から、「郡から女王国に至るまでは、一万二千余里である。」までの倭国の地理に関するところまでを読んだ。

 

この後、魏志倭人伝は、倭国の習俗の詳しい記述に入る。そのはじめの一節を読んでみよう。最後に、大変気になる一文がある。(もっとも、最後の一文があるために、この部分は、地理の項に入れるべきかもしれない。)

 

『男子無大小皆黥面文身。自古以來、其使詣中國、皆自稱大夫。夏后少康之子封於會稽、斷髮文身以避蛟龍之害。今倭水人好沈沒捕魚蛤。文身亦以厭大魚水禽。後稍以爲飾。諸國文身各異。或左或右、或大或小。尊卑有差。計其道里、當在會稽、東冶之東。』

 

「男子は、大人も子供もみな顔と体に入れ墨をしている。昔から、倭の使者が中国に詣でると、皆自分は大夫であると称した。夏后少康の子が会稽に封ぜられたとき、髪を短くし、身体に入れ墨をして蛟龍の害を避けたという。今、倭の漁師は好んで潜水し魚や蛤を捕らえる。また身体に入れ墨をして大魚や水禽を避けている。後には、これは飾りとなった。国々では入れ墨は異なっている。左や右だったり、大きかったり小さかったりする。身分によっても差がある。その道のりからすると、まさに會稽、東冶の東にある。」

 

夏王朝第六世少康の子が、会稽に封じられたとき、断髪分身したが、倭人の習俗も同じであることを述べた後、最後に、倭国は「まさに會稽、東冶の東にある」と言っている。

 

会稽は、杭州の近くの会稽山に当たる。杭州は、上海の少し南にある大都市である。北緯30度ほどで、その東というと、日本の奄美諸島が該当する。

 

東冶とは、現在の福州市あたりをいう。台湾の台北の対岸の都市といえば、位置関係が思い浮かぶであろうか。その東というと、日本では、最西端の与那国島、あるいは石垣島などの先島諸島が該当する。

 

呉朝の資料にも、倭は会稽の東海中にあり、某年に倭人が東冶に来たと記されている。薩南諸島や琉球列島の人々が、台北を経由して福州市(東冶)に至るのは、しごく自然なことである。

 

当時の中国人が接することのできた倭人とは、北の一点は、対馬、壱岐の人(魏志倭人伝にも南北に交易していたと記されている)であり、南の一点は、琉球列島の人であろう。とすると、その二つの情報から、魏志倭人伝の著者である陳寿は、倭国を、朝鮮半島の南端を千余里渡った対馬国から、福州の少し東まで、南北に長く点在する島嶼群と考えていたのではなかろうか。

 

ここで、以前フランスを旅した時、ルーブル博物館で見た大きな地球儀のことを思い出した。1781年、ルイ16世が、息子の教育用に作らせたというものだ。これには日本列島も描かれているのだが、ちょっと変である。本州が南北に縦長になっているのである。

 

九州や四国は正確なのに、本州は90度右回りに狂っている。18世紀でさえ、本州を南北に長いと世界の人は認識していたとすると、3世紀の邪馬台国の時代もそうだった可能性は高い。

 

実は、1402年に朝鮮で作られた混一疆理歴代国都之図という地図にも、同じような日本列島が描かれている。

 

魏志倭人伝では、連続読みだと、不弥国から「南に行くと投馬国に至る。水行二十日である。」、さらに「南に行くと邪馬台国に至る。女王が都をおくところである。水行十日、陸行一月である。」とある。

 

南へ南へと記述されているのは、倭国の地図が陳寿の手元にあって、何の疑いもなく、方角を明記したのではないのか。

 

この考えは、大和説にきわめて有利である。本州が南に伸びているのであれば、方角の問題はクリアできるからである。ただし、陸行一月の問題は残る。例えば、難波の津に上陸したとして、そこから大和国までは、せいぜい陸行数日であるからだ。

 

第21の謎