第21の謎:弥生の絹織物は北部九州からしか出ない。ならば邪馬台国は九州か?

 

倭国の習俗を記述した部の冒頭を見てきた。この後、「その風俗は淫らならず」から始まり、倭人の衣食住、葬制、特産物、礼儀などの習俗が、かなりの分量で記述されている。

 

ここでは、すべてを見ることは大変なので、諦めることにし、気になるところだけ触れることにしておこう。

 

まず、次の一節を見てみよう。

 

「種禾稻紵麻、蠶桑緝績、出細紵[糸兼]緜。」

「禾稲・紵麻を植え、桑を植えて蚕を飼って絹を紡ぎ、細紵・[糸兼]・綿を生産している。」

 

ここで、注目すべきは、中国の特産物と思われている絹織物を、倭国でも作っていたということである。

 

ところで、弥生時代の遺跡で、絹が出るのは、玄界灘沿岸と有明海沿岸だけである。佐賀県の吉野ヶ里遺跡でも、甕棺の中から絹の布片が見つかっている。ところが、奈良県でも、九州と同じくらいの面積の弥生遺跡を掘っているが、絹はひとかけらも出ない。

 

これは、どう考えればよいだろうか。魏志倭人伝に絹のことが書いてあって、それは北部九州からしか出ない。では、邪馬台国は、やはり九州にあったのか。そう考えることが素直だ。絹をもって、邪馬台国九州説の有力な根拠とする学者なども多い。

 

だが、ここで第一の謎を思い出してほしい。中国からの使いは、ふだんは伊都国までしか来ていないのではないかということだ。それから先の投馬国や邪馬台国は、一回しか訪れていないのだ。したがって、倭人の習俗も、対馬国から伊都国までの実見聞情報をもとに書かれていると見たほうがよい。

 

この考え方に立つ限り、絹は、邪馬台国の所在地の決め手にはならない。

 

 第22の謎