第22の謎:葬制から邪馬台国が見えるのではないか?
続けて、習俗の部で、気になるところを見ていこう。倭人の葬制に関する次の一節がある。
『其死、有棺無槨、封土作冢。始死停喪十餘日、當時不食肉、喪主哭泣、他人就歌舞飮酒。已葬、舉家詣水中澡浴、以如練沐。』
「人の死は、棺におさめるが槨はなく、土に埋めて冢を作る。人が死ぬと始めの十日余りは喪に服し、喪中の間肉を食べず、喪主は哭泣するが、他の者は歌い、舞い、酒を飲む。葬ったあとは、その家のものは皆、水中で沐浴をし、練沐のようにする。」
ここで注目すべきは、冒頭の「棺におさめるが槨はなく」という部分である。倭人の葬制は、棺にはおさめるが、囲いは作らないということである。三国志の筆者陳寿は、東夷の諸国の葬制に、多大な関心を持っていた。各国伝では、必ず記述している。以下、それらを見てみよう。
高句麗伝では、「石を並べて封となし、松柏を列べ種う」とある。高句麗特有の石積墳である。
韓伝では、「棺あって槨なし」とあり、倭国と同じである。
東沃沮伝では、「大木の槨を作る」とあり、棺については触れていない。
扶余伝では、「棺あって槨なし」なので、やはり倭国と同じである。
では、日本の古墳の発掘状況は、どうであろうか。
卑弥呼の墓ではないかという人もいる奈良県のホケノ山古墳で、2000年に、木槨木棺墓が見つかった。中心主体部の「石囲い木槨」は、わが国で初めて確認された構造の埋葬施設である。木材で構成した木槨部分と、その周囲に石を積み上げて構築した石囲部分からなる。石囲い部分は、河原石を積み上げた幅広の石室状をなし、内法で長さ約7m、幅約2.7mである。
これは「槨あって棺あり」となり、魏志倭人伝の記述とは合致しない。邪馬台国近畿説は成立しないのか。
ここで、そうではないという意見がある。中国の魏の時代の槨は、教室ひとつ分ぐらいの大きなものである。魏の使いが、ホケノ山古墳のような墳墓を見ても(あるいは倭人から聞いても)、「そんなものは槨ではない。ただの棺だ。」と思われた可能性がある、というのである。
とすれば、ホケノ山古墳も「棺あって槨なし」と見ることもできる。
では、今度は、北部九州の墳墓を見てみよう。前にも述べたが、伊都国の王墓とも目される平原遺跡の墓は、割竹形木棺である。これは、槨を作らず、そのまま棺を埋めているので、「棺あって槨なし」の魏志倭人伝の記述に合致する。九州説有利か。
だが、葬制についても、第一の謎が立ちはだかる。北部九州の葬制が、魏志倭人伝の記述に合致するからといって、邪馬台国が九州にあったことにはならない。魏志倭人伝には、対馬国から伊都国までの見聞情報しか書かれていないという前提に立つからだ。