第23の謎:持衰(じさい)とは何者か?

 

さらに続けて、習俗の部で、気になるところを見ていこう。

 

倭人には、実に恐ろしい風習がある。次の一節である。

 

『其行來渡海詣中國、恒使一人、不梳頭、不去[虫幾]蝨、衣服垢汚、不食肉、不近婦人、如喪人。名之爲持衰。若行者吉善、共顧其生口財物、若有疾病、遭暴害、便欲殺之。謂其持衰不謹。』([虫幾]は、偏が「虫」で、旁が「幾」の、日本語にはない漢字)

 

「海を渡って中国へ詣でる時に、いつも一人が、髪をとかさず、蚤や虱をとらず、服を垢で汚したままにし、肉を食べず、婦人を近づけず、喪に服している人のようにする。これを名づけて持衰という。事がうまく運べば、生口や財物を与えるが、病が出たり災難にあったりした場合には、これを殺そうとする。その持衰が謹まなかったからであると言うのである。」

 

持衰とは、まるで、いけにえのようだ。こんな迷信のようなことが倭国で行われていたのであろうか。魏志倭人伝は、この少し後に、占いのことが記されている。

 

『其俗舉事行來、有所云爲、輒灼骨而卜、以占吉凶。先告所卜、其辭如令龜法。視火[土斥]占兆。』

 

「その習俗として、何かをしたり往来する場合に、骨を焼いて、吉凶を占う。まず卜するところを告げるが、その言葉は令亀の法のようである。火によって出来たヒビを見て兆を占う。」

 

対馬や壱岐の弥生時代の遺跡からは、多くの焼け跡のある骨が見つかっている。亀の甲羅はそれほどないが、鹿の骨はたくさん出土している。

 

10世紀のはじめに、醍醐天皇の勅により編集された律令の施行細則である延喜式によれば、神祇官の卜部は、伊豆・対馬・壱岐から採用されている。いずれも航海に関わりのある土地柄である。

 

魏志倭人伝には、倭人は骨を灼いて占うことが記されているから、航海の安全を祈る意味合いがあったと思われる。

 

持衰というのも、中国へ詣でる時に同行するとある。であれば、対馬、壱岐の卜部の先祖たちが担っていたのではないだろうか。航海の安全を祈る司祭者の役割を果たしていたのである。

 

ただ、暴風雨にあったりすると、殺されてしまうのは、ちょっとやるせない。魏志倭人伝には、はっきり殺すとは書かれていない。『便欲殺之』、つまり「すなわち殺すことを欲す」と微妙な表現である。

 

いずれにしても、この時代は占いやまじないが信じられていて、重要な役割を持っていたことがしれる。卑弥呼は、持衰たちをもコントロール下に置いておいて、朝鮮半島や中国の情勢を把握していたに違いない。「鬼道につかえた」卑弥呼の力の源泉が見て取れる。

 

第24の謎