第24の謎:倭国のもとの男王とは誰か?
魏志倭人伝の習俗の部は、さらに続いて、以前に取り上げた一大率の記述につながっていく。その後は、倭国の歴史の部へと新たな展開を見せる。なお、前にも述べたが、魏志倭人伝は、おおまかに言うと、地理/習俗/歴史の3部構成になっている。
それでは、歴史の部の冒頭から読み進めていこう。
『其國本亦以男子爲王。住七八十年、倭國亂、相攻伐歴年。乃共立一女子爲王。名曰卑彌呼。事鬼道能惑衆。年已長大、無夫壻。有男弟佐治國。自爲王以來、少有見者。以婢千人自侍。唯有男子一人給飮食傳辭出入。居處宮室・樓觀・城柵嚴設、常有人持兵守衞。』
「その国にはもともと男子の王がいた。七、八十年経った頃、倭国は乱れ、長年にわたってたがいに攻め合う状態が続いた。そこで一人の女子を共立して王とした。名づけて、卑弥呼という。鬼道につかえ、よく衆を惑わす。年齢は既に高かったが、夫はいなかった。弟がいて、政務をたすけていた。王となって以来、見た者は少なかった。婢千人を側に置いていた。男子がただ一人いて、給仕をしたり、言葉を伝えるために出入りしている。住んでいる所には、宮殿・楼閣・城柵を厳かに設け、常に人がいて武器をもって警備している。」
いよいよ卑弥呼の登場である。だが、その前に、まず冒頭の「其國本亦以男子爲王」の部分を考察しておこう。
その国とは、もちろん倭国のことである。倭国に男王が誕生してから、70〜80年は平穏な時代が続いた。ところが、倭国動乱の勃発である。
後漢書の記載によると、倭国動乱は、桓霊の間(西暦147−189)とある。また、梁書では、霊帝光和中(西暦178−184)となっている。つまり、漢末の桓帝・霊帝の頃、西暦で言うと紀元180年頃に、倭国動乱が始まったことになる。
ということは、倭国に男王が誕生したのは、それから70〜80年前の、紀元100年から110年頃ということになる。これにぴったり符合する記録がある。後漢書の「安帝本紀」および「倭伝」である。その部分を示そう。
『安帝永初元年、倭國王帥升等獻生口百六十人、願請見。』
「安帝永初元年(107 年)、倭国王帥升等、生口百六十人を献じ請見を願う。」
これらによると、安帝の永初元年(107年)に、倭国王帥升等が遣使して生口160人を貢献した、となっている。魏志倭人伝にある男子の王とは、この帥升(すいしょう)ではなかったか。遣使は、倭国の成立を中国王朝に報告したものと考えられる。
前に述べたことだが、「漢委奴国王」(漢の倭の奴国王、または、漢の倭奴国王)が金印をもらったのが、西暦57年である。それから、50年後に、倭国が形成されたことになる。