第25の謎:卑弥呼は邪馬台国の女王なのか、それとも倭国の女王なのか?
一般に、邪馬台国の女王卑弥呼という。しかし、魏志倭人伝に、卑弥呼が邪馬台国の女王であったという明文はない。前にも述べたように、邪馬台国は、たんに「卑弥呼が都をおくところ」だといっているだけである。
魏志倭人伝の歴史の部の冒頭では、倭国大乱の渦中にあった諸国が、共立して卑弥呼を王としたとある。この諸国とは、どこであろう。
前に、魏志倭人伝で周辺国21ヶ国の国名を列挙し、最後に奴國を紹介した後、「ここが女王の支配する境界の尽きる所である。」と記している。
ということは、邪馬台国+周辺21ヶ国が、卑弥呼を共立したと読むことができる。いや、待てよ。北部九州6カ国や投馬国はどうであろう。共立に参加しなかったのであろうか。
前に、一大率が出てくるところで、「女王国より北では、特に、一大率を置いて、諸国を検察させている。諸国はこれを畏れている。常に伊都国にいて治めている。」とあった。
女王国より北、つまり北部九州6カ国や投馬国は、一大率によって厳しく監視されているという様子が見て取れる。
また、伊都国のところでは、「代々王がいるが、皆女王国に統属している。」とあって、やはり女王国の支配下にあったようである。
ということは、北部九州6カ国や投馬国は、女王国に支配される側であって、卑弥呼の共立に組みしたとは考えられないのではないか。
したがって、卑弥呼は、邪馬台国+周辺21ヶ国の連合国家の女王であり、その王権は、北部九州6カ国や投馬国を含む29ヶ国に及ぶと言っていいであろう。
卑弥呼は、邪馬台国の女王ではないことははっきりした。では、卑弥呼を倭国の王といっていいのであろうか。
魏志倭人伝の冒頭で、「現在は、使訳が通じるところは三十国ある。」とあったが、これに狗奴国が含まれることは、すでに述べた。陳寿は、狗奴国も倭国の一部であったと認識していたのである。狗奴国は、「女王に従わない。」国なので、卑弥呼を倭国王とすることは、厳密な意味ではできない。
ただ、親魏倭王の金印をもらっていることから、魏が卑弥呼を倭国王と認めたと言っていいだろう。卑弥呼は邪馬台国の女王なのではなく、倭国の女王であった。
ところで、「共立」とは、どういうことを意味しているのであろう。魏志東夷伝に「共立」が二例ある。一つは、夫余条にあるが、王に嫡子がなかったので、庶子が諸加(支配層)によって共立された例である。
もう一つは、高句麗条にあって、長男が不肖だったので、次男を国人が共立して王となしたものである。両例とも、長嫡子でない者が支配層によって推戴された場合に、「共立」の語が用いられている。
卑弥呼は、単なる民間宗教指導者ではなく、王統に連なる者と考えた方がいいだろう。また、狗奴国の王である卑弥弓呼とも、血が繋がっている可能性も高いと思われる。