「邪馬台国に40の謎で迫る」 久田巻三 C2008年11月

序章 まずは邪馬台国まで行ってみよう

 

邪馬台国はどこにあったのか。女王卑弥呼とはどんな人物であったのか。これらを推理することは、純粋に面白いし、楽しいことだ。

素材は、たった2000文字の魏志倭人伝。それから最新の考古学上の発見。誰でも推理に参加できる。

そこで、あなただけの邪馬台国を見つけるためのガイドを提供しようと思う。魏志倭人伝と邪馬台国は、謎に満ちている。その謎をあなた自身で解いてほしい。

この本では、邪馬台国がここだというような決め付けを初めからはしない。あくまでも考える材料を提供するだけだ。もちろん、筆者なりに邪馬台国の所在についての考えはあるが、それは最後に述べる。(決して先に見ないでほしい。推理の楽しみが損なわれるので。)

では、さっそく魏志倭人伝を読んで、一気に邪馬台国まで行ってみよう。

少し長いが、魏志倭人伝の冒頭から、邪馬台国が出てくるところまでを紹介しよう。原文と現代語訳を対で示す。原文をはじめに太括弧(『』)でくくって記し、続けて現代語訳を普通の括弧(「」)で記す。漢文が苦手な人は、現代文のみ読んでもらってかまわない。

 

『倭人在帶方東南大海之中、依山島爲國邑。舊百餘國、漢時有朝見者。今使譯所通三十國。』

「倭人は帯方郡の東南の大海にあって、山がちな島に住み国やムラを構成している。もともとは百余りの国があって、漢の時には朝見する国もあった。現在は、使訳が通じるところは三十国ある。」

 

『從郡至倭、循海岸水行、歴韓國、乍南乍東、到其北岸狗邪韓國、七千餘里。』

(帯方)郡から倭に至るには、海岸に沿って水行し、韓国をへて、南へ行ったり東へ行ったりして、その北岸に当たる狗邪韓國に到着する。七千余里である。」

 

『始度一海、千餘里至對馬國。其大官曰卑狗、副曰卑奴母離。所居絶島、方可四百餘里。土地山險、多深林、道路如禽鹿徑。有千餘戸、無良田、食海物自活、乘船南北市糴。』

「始めて海を渡り、千余里で対馬国に至る。その大官は卑狗といい、副は卑奴母離という。住んでいるところは絶島であり、周囲四百里程である。土地は、山が険しく、深い林が多く、道は獣道のようである。千余戸あるが、良い田はなく、海産物を食べて自活しており、船に乗って南北に交易を行っている。」

 

『又南渡一海千餘里、名曰瀚海。至一大國。官亦曰卑狗、副曰卑奴母離。方可三百里、多竹木叢林。有三千許家。差有田地、耕田猶不足食、亦南北市糴。』

「また南に海を渡り、千余里で一支国に至る。この海を瀚海という。官はまた卑狗といい、副は卑奴母離という。周囲三百里程で、竹・木・叢林が多い。三千ほどの家がある。やや田地はあるが、田を耕しても食べていくには足りない。ここでも、南北に交易を行っている。」

 

『又渡一海、千餘里至末盧國。有四千餘戸、濱山海居。草木茂盛、行不見前人。好捕魚鰒。水無深淺、皆沈沒取之。』

「また海を渡り、千余里で末盧国に至る。四千余戸があり、山際や海岸に沿って住んでいる。草木が茂っていて、進んでいても前を行く人が見えない。魚やアワビを好んで捕っている。海が深い浅いに関係なく、皆海にもぐり魚介類をとっている。

 

『東南陸行五百里、到伊都國。官曰爾支、副曰泄謨觚、柄渠觚。有千餘戸。世有王、皆統屬女王國。郡使往來常所駐。』

「東南に陸地を五百里進むと伊都国に到着する。官は爾支といい、副は、泄謨觚、柄渠觚という。千余戸がある。代々王がいるが、皆女王国に統属している。(帯方)郡の使者が往来する際に常に留まるところである。」

 

『東南至奴國百里。官曰 [/] (日本語には無い文字で、上が“凹”の下に“儿”が付く一字。以下同じ表記を用いる。)馬觚、副曰卑奴母離。有二萬餘戸。』

「東南に進むと、奴国に至る。百里である。官は[/]馬觚といい、副を卑奴母離という。二万余戸がある。」

 

『東行至不彌國百里。官曰多模、副曰卑奴母離。有千餘家。』

「東へ行くと、不彌国に至る、百里である。官は多模といい、副は卑奴母離という。千余家がある。」

 

『南至投馬國水行二十日。官曰彌彌、副曰彌彌那利。可五萬餘戸。』

「南に行くと投馬国に至る、水行二十日である。官は彌彌といい、副は彌彌那利という。五万余戸ほどある。」

 

『南至邪馬壹國、女王之所都、水行十日、陸行一月。官有伊支馬、次曰彌馬升、次曰彌馬獲支、次曰奴佳[革是] (日本語には無い文字で、偏が“革”の右に旁に“是”が付く一字)。可七萬餘戸。』

「南に行くと邪馬台国に至る、女王が都をおくところである。水行十日、陸行一月である。官は伊支馬といい、次が彌馬升といい、次が彌馬獲支といい、次が奴佳[革是]という。七万余戸ほどある。」

 

 ご苦労様でした。邪馬台国に着きました。魏志倭人伝はさらに続くのですが、また、後で取り上げることとして、とりあえず、ここで一区切りとします。さて、邪馬台国はどこでしょう。

 2000字の魏志倭人伝の中で、「邪馬台国」の文字が出てくるのは、ここ一ヶ所だけである。女王国や女王という表現は、魏志倭人伝の中に頻繁に出てくるが、「邪馬台国」はここだけである。魏志倭人伝の著者は、邪馬台国にはまるで関心がなくて、あくまでも女王国のことを記述している。

中国にとってみれば、東夷の倭国の王が女王であることに興味を持っていて、倭国を女王国と表現し、邪馬台国については、ただ女王が都する場所として記しているだけである。

 にもかかわらず、日本では邪馬台国がクローズアップされ、その所在が論争されてきた。

 さて、邪馬台国に至るルートは、冒頭からここまでのところに述べ尽くされている。第一印象が大切である。あなたは、邪馬台国がどこにあったと思いますか。

 素直に読めば、朝鮮半島から対馬、壱岐、松浦、糸島、福岡を経て、さらに南にかなり行ったところにあることになるが、そこには陸地が無くて海上になってしまう。

 そこで邪馬台国論争が、江戸時代以来繰り広げられてきた。新井白石が「邪馬台国は大和国である」と言って、初めて大和説を唱えた。一方、本居宣長は「筑紫の南にあり」として九州説で対抗した。

 戦後も、多くの人が、さまざまな説を発表してきた。しかし、いまだに定説はない。本書では、おいおいいくつかの説に触れることはあるが、研究史を述べるつもりはない。

 まあ、あまり急がず、今までのところを整理することから、邪馬台国に迫っていくことにしましょう。

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